生活伽藍堂

送られる生活

2017年6月26日

21時寝、2時起き。夢は見てない。とても目覚めのいい深夜の起床。

 

内村さまぁ〜ず見たり、同居人とお話しする。ガソリンスタンドのバイトの時給の良さに驚く。中途半端に寝て寝坊のリスク怖いんで早くに外へ出る。朝食は松屋の朝定食。塩分薄めのおかず達。牛皿とソーセージの塩分だけずば抜けている。

 

このところ僕は友人に楽譜を書いて引換に飯奢ってもらったり、先輩が飯代出してくれたり、同居人や先生からちょっとした飲み物やお菓子をカンパしてもらったりすることで細々と食い繫いでる。普通にバイトした方が楽なんだろうけど……面接がとにかく苦手だし、自分から集団に入るのに必要な気合いが多分大量に必要なのだと思う。端的に言えば人見知り。ちなみに自己紹介等で私は人見知りなので…って言えるやつは偽物です。そんな小賢しい予防線を張る彼らには凌遅刑を受刑していただきたい。

 

この夏はちゃんとお金を稼いでいくつもり予定です。予定です。予定通りにいくのだろうか。やらないと死んでしまう。だからやる。

 

 

このところインターネットを見てるとバイタリティ、頭の良さ、センスの凄い人たちが色々なことをやっているのをよくみる。ここ最近凄い人と会って話すことができたりして、劣等感というか自分は何もできないなあという心持ちになったりしている。そういう面白いことやってる人は大抵は30代とかの人たちですね。それなら俺だってあと10年かければ何かしら成し遂げて…と思ったりもするんだけど、ふとした拍子に何者にもなれない自分がシャイニングして、破滅的に無気力になったりしている。でも、この辺の問題はどんなに悩んでも思春期だからですね、の一言で片付けられてしまう。たとえ同世代の人と話しても、まあ、頑張るしかないね、の一言で片付けられてしまう。みんなあまり考えたくないんだろう。みんな、自分が一番辛くて、人の辛さまではかまってられない。ただそれでも頑張れとは思っているはずで。だから辛くともなんとかぼちぼち生きる。

 

生きる意味は結局死ぬという点のために長期的にみると意味は全くないんだけど、短期的にみることで意味を持つことができるので、いつか死ぬからといって生きること全体の意味が失われるわけではない。例えば、授業があるなら朝から出かけなければならないし、部屋が散らかってきたなら片付けなければならない。友達がいるなら顔を合わせば話しかけるべきだし、読みたい本は読むべきだ。将来のビジョンなんて見えているやつなんていなくて、みんな自分の環境でその瞬間の最善手を選んでるだけだから、どうあれ自分の行動は誰かの邪魔になってしまう。その上でみんななるべく自分に向いてることや楽しいことをやるべきだし、なるべく不満のないように暮らしていくべきだ。なので、僕は向いてることを見つけるために(そのためだけではないけど)自分の興味の持てることはなるべくやってみようという感じになってきている。決して意識が高いわけではなく、自分のコンプレックスの払拭と生活があまりにつまらないことばかりだから面白いと思えることをたくさんやって忙しくして、過剰な自意識を吹き飛ばそうという目的です。ブログやったりとか。糞みたいな過充電期間の10代を超え、20代はアイデンティティを持てるようにしたい。

 

文章書くのいいですね。漠然としてた思考がまとまる。人と話すことにも同じような効果があるけど、場の準備にかかるコストが高いから、文章書く方が手軽でいい。しかもブログの場合他人に見られるから、読み手の意識も考えて書くし、僕のためだけの文章にならずに済む。たとえ暇な時間だろうが時間を割いて読んでくれている人に感謝です。

 

 

 

 

 

と、午前中に書いた文章↑はかなりLOVEにあふれてて、なんか陶酔してしまってる素敵な内容になっていますが、午後になり、論述テスト前の昼休みの騒がしさやこういう時に限って話しかけてくるつまらない馬鹿の糞くだらない講師への中傷やあべみかこ似の同回生が袖がなくてやたら二の腕の出る服を着てくるなどしまして破滅な気分になり終わってしまった。テストも時間切れで全部は書ききれませんでした〜はい〜だめ〜